07

 行先はまたラパン・ドールである。
「あのね、ダスティ」
「どうした?」
「そろそろ要塞防御システムに手をつけなきゃいけないんだけど、普段のデスクワークではちょっと難しそうなの。だから、新年のパーティを途中で抜け出して帰ろうと思うんだけど……」
 そう言うと、アッテンボローはナイフとフォークを動かす手を止めてを見た。
「……が気にしてるのは、そうしても問題にならないかってことか?」
「ええ」
 アッテンボローは首をかしげた。
「大丈夫じゃないかなあ、そもそも強制参加じゃないし……。何か言われたら仕事してるって答えるよ」
「ありがとう」
 は微笑んだ。

「じゃ、それまではおれが一緒にいるから」
 もうアッテンボローの中では決定事項のようだが、は一転して苦笑いする。
「ダスティの言うことを聞いてると、新年のパーティが危険なものじゃないかって思えてくるんだけど……。わたしだって軍人よ」
「それは分かってる。でも、無礼講だからってによからぬことを企む奴らがいそうで心配なんだ」
「ポプラン少佐とシェーンコップ准将?」
「その二人が筆頭だけど、それ以外にもさ」
 は首をかしげた。
「わたしはダスティが心配しすぎだと思うけどなあ」
「何かあってからじゃ遅いんだぜ」
「それはそうだけど……」
 現時点でどちらの意見が正しいかは判断がつかない。したがって、話し合いは平行線をたどることになる。このとき、意見を引っ込めたのはアッテンボローのほうだった。


「……ま、今ここであれこれ言ってても仕方ないな」
「ええ」
が途中で帰るなら、なおさらそれまでは一緒にいたい。おれが何で心配してるか、分かるよな?」
 は赤面した。
「……うん」
が絶対に嫌ならやめるけど」
「そんな言い方はずるいわ」
 が口をとがらせると、アッテンボローは苦笑いした。さすがに自覚はある。

「じゃ、わたしからも言っていい?」
「何だよ」
「パーティ会場で一緒にいるのはいいけど、31日、仕事の帰りにオフィスに迎えに来るのは勘弁してくれる?」
 その提案は意外だったようで、アッテンボローは目を見張る。
「どこかで待ち合わせするってことか?」
「うん」
「せっかく近くにいるのに、わざわざ他の場所で待ち合わせることもないだろ」
「仕事が終わるタイミングが同じとは限らないし、ダスティが迎えに来たら、一緒に行くのをメイヴの幹部のみんなに見られるでしょ。わたしはそれが嫌なの」
 嫌という言葉がから出ると、やはりアッテンボローにそれなりにショックだった。

「新年のパーティに一緒に行くのは、仕事じゃなくてプライベートでしょ? それなのにわざわざ誘いに来るのって、わたしたちが普通の関係じゃないって言ってるようなものじゃない。前の艦長にもそんなことした?」
「まさか」
 その言葉は即座に出た。
「ダスティがポプラン少佐やコーネフ少佐と一緒にパーティ会場に行くのとはわけが違うのよ」
「それは分かるけど……。そうすると、どうせ行先は同じだってメイヴの幹部連中がについて来ないか?」
「大丈夫。パーティが始まるまで、会場近くで一人でぼーっとしてたいって言うから」
「なるほど」
「……だめ?」
 そう言ってどこか上目遣いで見つめられれば、もう降参するしかない。

「……ひとつだけ聞かせてくれ。、今のはわざとか?」
「今の?」
 とたんにきょとんとする様子を見て、アッテンボローは思わず天を仰ぐ。
「天然かよ」
「……だから、何のこと?」
「今の上目遣いだっ!」
 思わず声が大きくなる。当然というべきか、は赤面していた。
「……ごめんなさい」
「いや、謝らなくていい。でも……」
「何?」
「……これ以上は、家でゆっくり話す」
 アッテンボローが思うに、これは外で話す内容ではなかった。


 家に帰ると、はメイクを落として部屋着に着替えた。アッテンボローからしてみると、自分の家に素のがいるのはまだ不思議な感じがする。
「酒、飲むだろ? ウィスキーのロックでいいか」
「……うん」
 何となく自分の意志が軽んじられているような気がしては苦笑いしたが、大した問題ではないようにも思う。アッテンボローはすぐにウィスキーグラスを二つ持ってきて、ひとつをに渡した。

「ありがとう」
「あのさ、
「……何?」
 アッテンボローは本題を切り出す前に、自分のウィスキーグラスを傾けた。
はおれが心配しすぎだって思ってるだろうけど、おれが思うに、は自分が自覚してる以上に魅力的なんだぞ」
「……そんなことないと思う」
「いーや、そうだって」
 は一口ウィスキーを飲んだ。
「で、その中で特に問題なのは、が無自覚にその魅力を振りまいてることだ。頼むから相手はおれにだけにしてくれ、まったく」
 アッテンボローの予想に反して、の表情は硬い。


「……帰る」
 はそう言ってウィスキーグラスを置き、ソファから立ち上がった。
「ん?」
「ダスティはわたしにあれするな、これするなって言ってばっかりじゃない。こんなに不自由なら、一人でいたほうがマシだわ」
「ちょっと待てよ」
「嫌です。わたしを籠の鳥にしない、公私の区別はつけるって言ったから、安心してたのに……。これじゃ話が違うでしょう」
 の瞳にははっきりと涙が浮かんでおり、その琥珀色の瞳は怒りに満ちていた。対照的にアッテンボローは背中に冷や汗が流れ、顔から血の気が引いて行くのがはっきり分かる。

「ごめんってば」
「口では何とでも言えるわね」
 相変わらず声は冷たい。もう何も言うことはないと言いたげに、持って来たかばんを手に取るに至って、アッテンボローは慌てて部屋を出て行こうとするを後ろから抱きしめた。
「……ごめん、本当におれが悪かった。だから……帰るなんて言わないでくれ」
 それでもの身体は強張ったままであり、頬には明らかに涙が流れている。
「なるべく一緒にいたいし、あれこれ心配してるのは事実だけど……。確かにやりすぎだな。の言うとおりだ」
「……もう言わない?」
「努力する」
「それじゃ信用できない」
「そう言われてもなあ」

「じゃ、やっぱり帰る」
 わずかに和らいだ緊張がまた高まる。ここまで言われると、もはやアッテンボローには全面降伏以外の道は残されていなかった。
「……分かった、もう言わない。約束するよ」
「言っておくけど、二度目はないからね」
「ああ」
 の性格から言って、それは充分に考えられることだ。
「ソファに戻らないか」
「……うん」
 がかばんから手を放したことで、アッテンボローはひどくホッとしたものである。
「じゃ、31日はどこで待ち合わせる?」


 二人で端末を見ながら待ち合わせの場所と時間を決めると、もだいぶ落ち着いたようだった。
「で、ダスティはいつもこんなお酒飲んでるの?」
「ああ」
「さすが少将閣下、高給取りでいらっしゃる」
「そう言うなよ。でも、イゼルローンは酒の値段がハイネセンよりもずいぶん高いよなあ」
「しょうがないじゃない、ここまでの輸送費がかかってるんだ……」
 笑いながらそう言うの唇をふさぐ。それは、完全な不意打ちだった。
「ウィスキーの味がするな」
「当たり前でしょ」
「驚いたか?」
「……うん」

 はアッテンボローの背中に腕を回す。
「珍しいな」
「甘えたくなったの」
「どうぞどうぞ」
 はしばらくしてから、気になっていたことを口にした。
「ねえ、ダスティ……。わたしがベイリー少佐と一緒に執務室に行ったとき、何で赤くなってたの?」
「……それはおれが心配する理由と関係あるんだが、言ってもいいか?」
「ええ」
「ラオがな、がきれいになったって言ってたんだ。恋の力は偉大ですねとまで言われた」

「…………」
 は沈黙した。それでは赤くなるわけだし、今、自分自身の顔にも血がのぼっていることを自覚する。
「ダスティもそう思う?」
「ああ」
「それは結局ダスティのおかげよ」
「うれしいこと言ってくれるなあ」
 は上目遣いにならないように注意しながらアッテンボローを見上げた。
「……だから、そんなに心配しないで。わたしは他の誰と一緒でも、こんな幸せだとは思えないから」
 ちょっと素直じゃない表現だったかなとは思ったのだが、その心配は完全に杞憂だった。これ以上ないくらい強く抱きしめられ、思わす目を閉じる。予想通り、次の瞬間には顔のあちこちに唇の柔らかい感触がした。最後に唇が重ねられ、何度も角度を変えてキスが続く。
「……ありがとう。何て言うか……落ち着いた」
「ううん、わたしも……。ごめんなさい」
「いや、いい。その代わり……」
 それ以上の言葉は必要なかった。


 翌朝アッテンボローが目覚めたとき、はまだ眠っていた。
(また怒られるだろうなあ)
 目が覚めて最初に思うのがそれであることに苦笑する。もちろん寝顔はあどけないし、布団に隠れている肢体も相変わらずなのだが……。
(あんなこと言われて冷静でいられるかっての)
 それがアッテンボローの本音である。ただ、その結果がこれであることには、いささか複雑な気がしなくもない。
(考えてみれば、まだ付き合い始めてから1ヶ月なのか)
 はプライベートだけでなく職場環境も激変したのである。それを考えればあまり無理は言えないし、彼女の言うことに耳を傾けなければ、また昨夜のような状況になってもおかしくない。
(…………)

 アッテンボローは布団の中で思わず頭を振った。
(気をつけないと)
 そんなことを考えている間にも、は眠っている。こうなると、もう見ているだけでは満足できなくなった。
(起こすかなあ)
 そう思いながら白い頬に唇を寄せると、すぐにもう頬では満足できなくなる。それでもためらった末に唇を重ねると、さすがにはうっすらと眼を開けた。
「おはよ」
「……おはよう」
 何となくぼうっとしながらそう答えた後、は現状に気づいたようだ。


「…………」
「どうした?」
「どうしたじゃないわよ。ちゃんとパジャマ持って来たのに、何で着ないまま寝てるわけ」
「だってがかわいかったから」
「わたしのせいにしないでっ!」
「……ごめんなさい」
 アッテンボローの謝罪も空しく、は即座に背を向けた。こうなるとアッテンボローの取るべきみちは一つしかない。そのまま背中からを抱きしめる。
「ごめんな。は終わった後にそのまま寝るのが嫌なのか?」
「……その前に、わたしはシャワーを浴びて、きれいにしてからがいいの」
 顔が見えないとはいえ、朝の光の中でそう言うのは恥ずかしいに違いない。それは分かるのだが……。

、こっちを向いてくれないか。恥ずかしがらなくていいから」
「そんなこと言われても……」
「じゃ、訂正する。恥ずかしがってる顔もかわいいから、気にしないでくれ」
「……ダスティはいつからそんなに口が上手くなったの」
限定だからな、言っておくけど」
 肩越しに笑った気配がして、はゆっくりと振り向いた。たったそれだけのことがひどくうれしく、すぐに唇を重ねる。
「話を戻してもいいか?」
「……うん」
「とりあえず、今回おれに余裕がなかったことは謝る」
 はうなずいた。

「で、は……」
 改めて水を向けると、は赤面した。
「シャワーを浴びて、それから……終わった後はパジャマを着て寝たいの。それで風邪を引いたらばかばかしいでしょう?」
「何だ、それが心配なのか」
 やはり、聞いてみないと分からないものである。アッテンボローの反応に、はきょとんとした。
「シャワーの件は気をつけるよ。で、風邪が心配ならこうすればいいと思うんだけど」
 アッテンボローはそう言って意識的にと身体を密着させた。
「ほら、あったかいだろ?」
「……これでダスティは理性を保てるわけ?」
「無理だろうな」

 途端に腕の中で暴れ始めるにアッテンボローは笑ったが、には笑いごとではない。
「ちょっと待って、今日はもうだめだってば」
「何でだよ」
「何でじゃないわよ。さっきわたしが言ってたこと、もう忘れたの?」
「……そうだな、悪い」
 その一言で急に頭が冷えた。それはも同じだったようで、さすがに苦笑いしている。
「朝から疲れちゃった」
「ごめん」
 今日というか、昨日の夜からアッテンボローは謝ってばかりである。


「それで、わたしがシャワーを借りてる間に朝ごはんが出てきたりする?」
 の何気ない言葉に、アッテンボローは硬直した。
「まさか……」
「ごめん。仕事でばたばたして、用意する余裕がなかった」
「…………」
 は無言で息を吐く様子を、緊張しながら眺める。
「ダスティ」
「何でしょう」
「そういうことはもっと早く言って。最初に言っておくけど、この件も二度目はないからね」
「……承知いたしました」
「朝ごはん、おごってくれる?」
「もちろんでございます。何でもお好きなものを遠慮なくどうぞ」
 神妙に答えると、は笑った。

「じゃ、こうしない? 外で朝ごはんを食べた後に、卵を買って帰ってくるの。午後から多めにゆで卵を作って、半分はわたしも持って帰らせてもらってもいい?」
 簡単ではあるが料理講習がスタートするということである。昨日のように、それこそ「話が違う、今すぐ帰る。もうしばらくうちに泊まりに来るな」と言い出すかもとびくびくしていたアッテンボローにとっては、予想以上によい提案だった。
「……ありがとう、。助かるよ」
「ついでにもう一つ、言っていい?」
「ああ」
「わたしがシャワーを浴びる間に、お店を探してね」
「……分かった」
 これについては、の提案を無条件に受け入れる以外の選択肢はない。


 ベッドから出るまでにまたひと悶着あり(何しろ二人とも服を着ていない)、どちらが先にシャワーを使うかでもめ(家主であるアッテンボローがに譲った)、ようやく一人になるとアッテンボローは大きくため息をついた。
(まあ、よかった……んだよな)
 いろいろあったが、何とかやり過ごしたのである。もちろんの言うように「二度目はない」のも確かだったが……。
 シャワーの順番を待っているので、どうも手持無沙汰である。とりあえず服を着てリビングに移動し、端末で食事のできる店を探した。幸い、時間は既に朝と昼の中間なので、選択肢はそれなりに多い。

(うーん……)
 それだけに、居住区近くにするか商業区域まで出るかはなかなか判断がつかなかった。商業区域のほうが間違いなく店の数は多いが、行くまでに多少時間がかかる。逆に、居住区近くだと近いが該当する店には限りがある。
(でも、居住区の店のほうがいいかな)
 家の近くで食事ができる店をいろいろ知っておくことは意味があるように思えるし、いつもではないにしても、外で朝食をとる機会は皆無ではないだろう。
(おれ一人で行くこともあるかもしれないし)
 ちなみに、昨日も行ったラパン・ドールの営業開始には、の出かける支度を考えてもまだ早い。
(まあ、あんまり同じところばっかり行ってもなあ)


 数軒の店に目星をつけたとき、リビングのドアが開いた。
「お先にいただきました。ありがとう」
「じゃ、おれも行ってくる」
「ええ。支度してるわ」
 女性は支度に時間がかかることを、アッテンボローはよく知っているのだ。そしてアッテンボローがリビングに戻ってきたとき、は既にそのまま出かけられる格好になっていた。
「早いな」
「そう? ちょうど終わったばっかりよ」
 一方のアッテンボローは、髪を乾かして着替えれば準備は終了である。
「それで、どこに行くの?」
「もうモーニングって時間でもないから、ブランチだな」
「そうね」
「居住区のレストランで、いくつか候補を見つけたんだ。どこにする?」
 アッテンボローはそう言って端末に候補の店を表示した。

 意識しなくても、顔を近づけるといい香りがする。
「わたしはあんまりこだわらないけど……」
「だよなあ」
 そう言うが早いが、また素早く唇を重ねる。赤面しながらも呆れた様子のが言ったのは、意外なことだった。
「……口紅がついてるわよ」
「おっと」
 適当に唇を拭うが、どうやら見当外れだったようだ。が手を伸ばして唇の端に触れる、その何気ない仕草がひどくうれしい。
「……ありがとう」

「話が進まないわね」
 は肩をすくめた。
「そうだな。いっそ、いちばん近いところにするか」
「賛成。で、どこ?」
 アッテンボローは端末を操作する。
「風待亭ってところだな。知ってるか?」
「ううん」
「そっか、おれもだよ」
 2人は顔を見合わせて苦笑いした。あらかじめ情報収集しても、行ってみなければ分からないことも多いのである。そしてこの場合は、とりあえず営業していれば充分だった。

「今日は休みじゃないよね?」
「ああ」
「ダスティはそろそろお腹が空いてるんじゃない?」
「よく分かるなあ」
 昨日の夜はよく動いたから、などと言おうものならまたの機嫌は急降下するので、それは思うだけに留める。
「じゃ、行くか」
「ええ」
 は微笑んだ。


 家を出ていつものように手をつなぎ、端末の地図を頼りに行った「風待亭」は、大通りからひとつ道を中に入った場所にあった。ひっそりと小さな看板が出ているくらいなので、注意していないと見落としそうである。
「隠れ家みたいね」
「ああ。こうやって店を目立たせなくても経営が成り立ってるってことは、それなりに味に自信がなきゃできないからなあ」
「でも、もし高くても安心だわ。ダスティのおごりだもの」
「…………」
 店について調べたとき、当然ながらだいたいのメニューの価格も見ているので、さほど心配はないのだが、これにはさすがに苦笑してしまう。
「行こう。本当に腹が減った」
「ええ」


 アッテンボローが厚い木製のドアを開けると、小さな鈴がちりんと鳴った。
「いらっしゃいませ。2名様ですね」
「はい」
 出てきたのは初老の男性だった。
「お好きな席へどうぞ」
 言われて見渡した店内は、昔ながらの喫茶店といった風情である。
「カウンターへ行こう」
「本当に好きね」
「いいだろ、別に」
「もちろん」
 そんなことを言い合いながらカウンターの席に並んで座り、メニューをめくる。はふと時計を見たが、ぎりぎりモーニングセットの時間内だった。

「モーニングセットがよさそうだわ。時間に間に合ってよかった」
「おれはそれだと足りない」
「でしょうね」
 は笑った。
「そうだなあ……。あ、トーストをピザトーストにすればいいのか」
「…………」
 朝からよく食べるとは思ったが、そう言ったところでいつもの会話を繰り返すだけである。注文を済ませると、アッテンボローはに笑いかけた。


「なかなかいい店を見つけた気がする」
「……そうだけど、だからってわたしが泊まるたびにここに来るのは違うわよ」
「おれのおごりでも?」
「問題をすり替えないで。たまにならいいけど、毎回はだめ」
「……分かった」
 この件で食い下がっても、結局は論破される可能性が極めて高いのだ。それであれば、あまり雰囲気が悪くならないうちに撤退するに限る。
「今年ももう終わりなのね」
「ああ。考えてみれば、秋以降はジェットコースターに乗ってるみたいだったなあ。まさかイゼルローン要塞で年越しするとは思わなかったぜ」
「同感だわ」

「おれは今年の……特にアムリッツァ会戦から後のことは、一生忘れないと思う」
 思いがけなく真面目な口調でそう言われ、は赤面した。
「たぶん……わたしも」
 ここはお互いの家ではなく、初めて来た店なのである。この会話でお互いに軍人なのはばれただろうなとは思ったのだが、アッテンボローがそれを気にする様子はない。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
「……すみません」
「いえいえ……。どうぞ、ごゆっくり」
 料理を持ってきてくれたのは、先ほどの初老の男性である。こんな会話をしていれば、確かに注文した料理を運ぶのもはばかるだろう。何も言わずに気を利かせてくれたことに、は感謝した。


 運ばれてきた料理はどれもおいしかった。より安堵したのは店を見つけたアッテンボローだっただろう。
「うん、やっぱりおれはいい店を見つけた。ゆっくりしたいから、もう一杯コーヒーを頼まないか?」
「そうね」
 この後は特に予定があるわけではないので、は笑顔で同意する。
「すみません、あの……」
「かしこまりました」
 さほど大きい声で話していたわけではないが、何と言ってもカウンターにいるのである。
「ありがとうございます」
 は微笑んだ。

「朝からこんなにゆっくりしたのは久しぶりだわ。ありきたりな表現だけど、時間がゆっくり流れてる気がする」
「おれもだよ。ここは誰にも教えたくないなあ」
「ええ」
 そんなことを話していると、例の初老の男性が二人を見て笑った。
「どうか、これからもご贔屓に。もう少しでコーヒーが落ちますので」
「ここはランチもやってるんですか?」
 そう尋ねたのはである。

「はい。食事はモーニングとランチが中心です。夜は19時に閉店します」
「なるほど」
「ということは、酒はないんですか」
 これはアッテンボローの発言であり、は苦笑いした。
「はい。歳のせいか、夜が遅いのはきつくてねえ」
「……無理なさらないでくださいね」
「お気遣いありがとうございます。コーヒーが入りましたよ」
「いただきます」

 コーヒーを一口飲むと、はアッテンボローに言う。
「ここに来て、一人でゆっくり本を読んでもよさそうね」
「……それはいいけど、いきなり行方不明になるなよ。あんまり頻繁じゃなければ止めないからさ」
「気をつけるわ」
 は笑った。
「次はランチに来るか?」
「そうね」
「お待ちしています」
 当然ながら会話は聞こえているだろうが、必要以上に踏み込んでこない距離感が心地よい。心から満足しながら、アッテンボローとは外での朝食を楽しんだ。





2019/6/21up
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